2008年7月1日
小説 1 ◆参考
ようやく最近になって気付いたことがある。
皆は、私たちのことを妬んでいたのだ。
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彼は必死に勉強した。そして、30歳を過ぎて、司法試験に合格した。司法試験に合格したら、司法修習というパラダイスがあるはずだった。ドラマ『ビギナー』の世界だ。受験時代に見ていたドラマの世界を思い描き、司法試験に合格したら薔薇色の生活が始まると、彼は確信していた。
しかし、ミムラも奥菜恵も松雪泰子もそこにはいないし、彼もオダギリジョーではなかった。彼には、楽しそうに球技に興じる若々しい修習生に混ざる体力もないし、合コン話や法律議論に加わる社会性もなかった。
和光市駅から歩いて半時間かかるところに研修所はあり、研修所内に司法修習生の寮がある。病室のように明るい色で塗沫された部屋の窓側に固定式の机が鎮座し、研修所に来て間もない4月中旬の夜には足元が冷える構造になっている。朝の陰雨から一転して夕晴れとなった5月中旬の夜、まだ足元の冷える寮の自室の机の前に座って彼は黙考し、終に結論を見た。
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私はここに来てから、ずっと考えていた。どうして彼女は私に無関心な素振りをするのか。どうして彼女はあんな低俗な奴らに迎合し、彼等なんかと行動するのか。これは現在の私に与えられた難問であり、解明すべき重要事項であろう。
彼女の名前は乙野華子という。彼女はいかにも若手の合格者といった感じで、世間の事など何も知らずにただひたすらに勉強してここに辿り着いたのだろう。ここに来るまで様々な苦労をして、コンビニのバイトや塾講師をして世間の裏側を見て来た末に、高尚な精神と含蓄ある世間知を得るに至った私からすると、彼女など本来は何の興味も持ち得ないところである。
研修所の入所日、私は指定された教室の席に付いたところ、私の斜め前の席に彼女は座っていた。私が席につき、ふと彼女のほうを見たとき、彼女は私に向かって会釈し、微笑んだ。席順表を見つつ、「甲山さん…、ですね。乙野です。どうぞよろしくお願いします。」と言った時の彼女の笑顔は、私にだけ向けられていた。そんなやり取りがあったことから、やむなく私は彼女を見守ることに決めたのだ。
私は彼女の理解に努めた。私は実に真面目な男だと思う。彼女の名簿の記載事項を全部暗記したのは当然として、彼女の部屋番号、彼女の修習生の中の交友関係、彼女が着回している3着のスーツの全ての色と形、さらには彼女がいつも昼食の弁当のオレンジを食べないことまで調査済みだ。ただし、これは純粋な研究であり、私に与えられた難問の解決に向けられたものであるから、私は決して不審者などではない。
しかし、どうしたことか、初日以来、彼女は私に話しかけて来ない。彼女の話し相手になっているのは、修習後にグラウンドで野球やサッカーに興じている、唾棄すべき若者連中だ。私の高尚な精神は誰もが認めざるを得ない次元に達しているというのに、何故彼女は私に無関心なのか。いや、無関心を装っているだけだ。
私は考えているうちに冷えた机に額を付けて寝てしまっていたようだ。膝や足先が冷え、頭は夢見心地なところで、彼はふと思った。彼らが私を妬んでいて、彼女が無関心を装っているだけだとしたらどうなのか。
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その日の彼の頭髪は、切り揃えられた揉上、ポマード、七三分けという要素を一つずつ取り上げることをせずとも、何かが違うことは一目瞭然だった。彼の髪型を一言で表現するなら『昭和』とでも言うべきか。でも、誰もそのことに触れなかった。ひょっとしたら、気付かなかったというべきかも知れない。
しかし、彼には考えがあった。熟考の末に辿り着いた結果なのか、起案に疲れ切った果てに夢心地に導かれてその続きの考えなのかは分からないが、とにかく考えた末にその髪型があったようだ。
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(続く)